***02.jan.2006
昨夜、幼少の頃を過ごした町の近くにある「伊奴神社」に初詣。
夜中に眺める町の姿は、所々すっぽり抜けて駐車場になっていたり、どこかから運んで来たような小奇麗な建て売り住宅にかわっていたけれど、まだ、昭和40年代の瞳に映し慣れてきた墨色の瓦、黒く染まった木の塀に囲まれた平屋住宅が並ぶ。懐かしく眺める風景のなかに、その後30年以上もそこで繰り返される営みの枠に生きる人々がいてくれるということが嬉しく、あの家の中に入ってみたいと思う。 音楽教室の時間待ちの間、狭い廊下で読んだ漫画本のなかで『エコエコアザラク』のマンドレイクに痛く心ひかれ、日当たりの悪い塀の下の芋系の植物の茎をひいてみたこと、とか。 まだ、覗き込む好奇心いっぱいの目線を手招きする不思議なものたちの世界がひっそりと息づいているような。
そのころマタホと呼んでいたエリアのマタホダンチはまだあるかしら、団地の中のショッピングセンター・ジャスコや、水泳教室、山小屋みたいなステーキハウス、とか。お絵描き教室のお寺はどこだっけ、八神先生ってお坊さんだったんだな、とか、寺なのに神さんだったのか、とか、 また老境の入口で懐古がはじまる。
さて、伊奴神社の発行誌「稲生(いのう)さん」によればここは建立天武二年(673年)、なんと日本書紀の時代である。境内にはしめ縄で祀られた巨木があり、お稲荷さんの赤い鳥居が並ぶ先に、岩のようなご神体を祀った社もある。 今から1333年前といば濃尾平野のど真ん中の原っぱで、獣がコンと鳴いただろう。
御祭神は、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、大年神(おおとしのかみ)、伊奴姫神(いぬひめのかみ)
御由緒は、第40代天武天皇の御代(西暦673年)、この地でとれた稲を皇室に献上した際に社殿が建立された。『延喜式』に「尾張国山田郡伊奴神社」と記載される式内社だそうだ。 御神徳はこう書いてある。素盞嗚尊は伊弉諾神(いざなぎのかみ)と伊弉再神(いざなみのかみ*[再]は正しい字がみつからなかった)の御子で、天照大御神の御弟神であり、出雲地方を治める。大年神は素盞嗚尊の御子で農業の守護神。「年」とは稲のことだそう。伊奴姫神は、大年神の御妃で大国御魂神をはじめ五柱の神々の御母神。
もうひとつ、「いぬ」のいわれは、庄内川の氾濫に困った村人が旅の山伏をもてなし御幣を立ててお祈りをして洪水を治めた、それを不思議に思った村人が御幣お開いてみると一匹の犬の絵と「犬の王」の文字が書いてあった。翌年また洪水になったので、ふたたび訪れた山伏にお詫びしたところ「御幣を埋め社を建てて祀れ」とのこと、以後洪水は治まった、これが始まりとも伝えられる。
この神社の大鳥居をくぐったとき、戦争の時に兵隊さんを見送るためにここに人々が集まったんだなあ、と、その夜のビジョンが浮かんだ。ざわざわとした魂の記憶が境内には、あるな。語って聞かせたいか、あるいはそのまま時間がフリーズしているのか。
スサノオといえば永井豪。伊勢神宮第62回式年還宮(平成25年、あと7年だ)の準備をする人々の番組で、これを迎えて3度目の御還宮だという職人さんが言っていた。もう一度おつとめさせてもろうて私の人生のつとめはおしまいです、って。
身勝手で愚かな人が、何のために自分は生きているのかと苦しみを吐露する。そんな卑小な私欲に満ちた自己陶酔をはるかに軽々と越えて。
生きて受け継ぎ、死んで遺すもの。軽々しく死という言葉を振りかざすことなく、ただ歴史の織目のひとつとして、すがすがしい境地にたてるといいな、と思う。
人間に生まれ変わることは、立てた針の上からこぼした米粒がささるほどに稀なことなのだという。
人間の中の一握りだけが神様に選ばれたのじゃない、誰も特別じゃない、功あげ徳を為す、なんてリキんでするものでなし、ましてや声高に顕示するものでもなし、拾った犬と毎日散歩をしているおばさんが、 子供を産んで骨盤がひらいて戻らず、でもそんなことが損だとか苦労だとか思って恨むよりも、この犬がかわいい、この子が愛しいと授かり物を喜んで日々を些細に生きること、 そんな、beauty。
自分も、針の上にこぼれた米が立った類い稀な偶然の授かり物なのだよ。

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