***07.may.2005
筑紫さんのインタビューで、テオ・アンゲロプス監督がコーヒーを一滴一滴ゆっくりと飲む事について「味わうのだ」と言っていた。イタリア人はエスプレッソを素早く飲む、それは奪っているのだ、と。時間を、なのだ、と。
『シテール島への船出』を見たのはずいぶん昔のことだが、この監督の作品との出会いだった。
そうだ、じっくりと時間を味わうのだ、どんな状況であっても、一つの時間のなかにたくさん掻き込むこと、のおいしさ(「豊か」になることもある、のかもしれない)と、ごくわずかだが味わうことの(「おいしい」ということじゃないように思う)の豊穣を一概に対比できないとしても、わずかなものから繰り広げる時間にたゆたうことのほうが、今は、やさしい。
急がなければ流れ去ってしまう激とした波を見送り、凪に漂いながら微細な時間の流れを味わっている、味わうために。

午後、徳持耕一郎さんの個展に出かけた。銀座・伊東屋9F。1996年の鶴来現代美術祭以来の知人。ジャズ・プレイヤーをモチーフに、鉄で空中にドローイングをする。版画も写真もドローイングも、一貫してジャズ、ジャズ。生演奏の時間、空間、匂い、に寄り添う絵画。そんな中、歌磨呂が。カタログで、自身の筆致(鉄もペンも)と浮世絵や書の筆運びを検討した分析がある。私がギャラリートークに遅れて着いたので、一瞬ゲストがひいた時にスライドショーを投影してくださって、話をした。実際の空間に充満し流れて行く音楽という時間を、紙の上に写しとっていく、それを鉄筋彫刻に表し、砂丘に置くと影がひとときもとどまらず変化する。。。次元の増減、推移といったものがおもしろく、最終的な影のために彫刻しているみたいだ、と。
友人に3年前に託したVAIOノートと脳波コントローラを受け取る。お、重い。VAIOの故障はディスプレイのユニット不具合が原因で、2回もパネル取り替えて修理をしてくれた。大感謝。windows2000のジャギジャギの立ち上がり画面が懐かしい。脳波出すぞ、脳波。

ところで、鳥取には『博士』という万年筆職人さんのお店(?)があり、くだんの徳持さんから販売会のお知らせをいただき、もう数年前のこと、今は山口県に住んで年に一冊づつ小説を出版してる真弓田志夫さんと、神楽坂の静かな喫茶店で見せていただいたことがある。真弓田さんに一片の紙をすすめ、文字を書いてみて、という。真弓田さんはさすがに達筆だ。『博士』さんは、ひとりひとりの筆圧、書き癖を見て一本を手作りするのだそうだ。当時は手が届かなかったけれど、そうやって手になじむ、絵でも文字でも、指先のように書ける筆記具をひとつは持ちたいと願うこともある。ともに時間を過ごしていく道具。わたしが描いた、表現したすべてを知っているような、道具。
痕跡を残さず消えてゆくものを記憶するすべをさがしているのに、時々、ずっと寄り添うものとの信頼関係に憧憬を覚えることがある。かつては専門の道具に身を映すということをポジに感じたこともあったけど、いつしか道具へのこだわりや道具の来歴といったものから離れ、意味や物語から距離をおいている。特別ではないことをいつくしむということ、道具を本来の性能目的外におろし、景品のボールペン、安くて情緒のないペン、そのへんに転がっていた鉛筆、、、そういった忘れられたものたちとひとときを切り結び、過ごすこと。
引越を重ねても風景に鎮座しているのは拾った木の実、模様のある石、たんぼぼの綿毛、オコツのような木片、、、残されても苦笑されるものばかり、そんな、いつか消えてしまう、とるにたらないもの、近づかないとよく見えないものたち。一桁年齢のころの大事なもの入れには、砂場でみつけた小さなしじみ貝の貝殻やら、時々、貝のお味噌汁に紛れ込んでいる、貝に食べられた小さな蟹。
she's leaving home、大事にしてかわいがっていたのに、お金で買えるものは何でも与えたのに、と、1960年代のイングランド。
鮮烈な赤のバラに抱かれる美少女、という象徴と、澱んだぬかるみでもがく理性と理想と焦燥。映画『Amerian Beauty』で嬉しかったのは、街角でポリ袋風に放浪されるさまをカメラ越しに見つめ続ける少年(監督の目でもある)がここにもいて、世界のどこかにいるはずの、同じ魂をもつ人を捜しているということ。

...a day before.....*+*+*+*+*.....a day after.....