***22.aug.2006
ひきつづき、益子で友人の展覧会場で記録撮影。
午前中、作品のなかでまどろむ。
天中のころ、やや雲が空全体を覆って真夏のギラギラ感はないものの、もわっとホットである。
「あづま屋」さんという、気取らない大衆食堂のようなお店でざるそば。東京で、大げさにそばがうまいのうまくないのというのが肩すかしを食らうように、おいしいおそばである。めんのコシ、○。「みそおでん3本200円」とあって、おかみさんに「おでんは何がある?」ってきいたら「おでんはおでんだよ、読んで時のごとく!」と返される。出て来たものは、こんにゃく。みそ田楽ということかな。お店を出るときに、ものすごく懺悔の念にかられた。私は、おかみさんの答えをちょっぴり小馬鹿にしたんじゃないかと思う。おでん、て、具のことじゃないよ、料理法のことでしょ、って、心の中で少し笑って思った。 でもおかみさんは生まれてこのかた、おでん=こんにゃく、で通って来たんだ、何も間違っているものか。彼女の父母や祖父母は、おでんはうまいな、って幸せな食卓を囲んだんだよ、あのなつかしい昭和の家屋の下で。急に、彼女の少女時代の家庭の食事風景がまざまざと脳裏に浮かび、私はその幸せな記憶に土足で踏み込み踏みにじるようなことを、本当にあさはかで冷淡に、やってのけたんじゃないかと、自分が薄ら寒く、そら恐ろしく感じて、おばさん、ごめんなさい、と何度も心の中で思い、後悔して、まったく私の動揺など意に介さず、変なことを聞く客だねえ、と私にあきれて、もう忘れている彼女なのに、もう一度時間を巻き戻してその場面をやり直したい、と思った。人の常識を自分の知識だか常識だかに照らして、間違いだ、って思ったことを後悔している。
その後、コンビニで80kcalアイスを買って那珂川を見に行った。アユつりに来ている人が何人かいた。みんな、石の河原にドガドガと車で乗り入れてくる。これがしたいがために、4WDとかSUVとか、舗装された道路では無用に反エコな車を欲しがるのね。いつも、車のCMで、自然の風景に無遠慮に殴り込んでくるエゴイストで暴力的な自動車の映像を、ひどいなあ、という思いで眺めている。森の動物たちがびっくりして顔をあげたり、一目散に逃げ出す風景すら、何かエグゼクティブで素敵なことのようにうたっているCM映像をみると、狂ってる、と思う。こういう世界観を美徳とするディレクターも作家も、自動車メーカーも、ユーザーも、狂ってる。そして、そう言う人こそが、自然が好きだから、と、信じられないようなことを言う。釣をする、バーベキューをする、花火をする、自然を満喫する、それ自体に罪はない平和な風景だが、そこにいたるプロセスが問題だと思うのだ。そのプロセスになんら懐疑を持たない精神性こそが問題を生んでいるのであり、いい人であるかどうかと、熟慮して行動する人であるかどうかは別の次元なんだな。河原の石は足の裏ツボに痛いけどよく効く、ような気がした。熱くて。温灸ツボ療法。
途中で滝に寄った。岩場で奇妙な死骸があった。最初、植物かと思った。よく見ると、尾びれのような骨の形があって、そこから長い茎だと思ったのはどうも管で、その先のほうのトマトみたいと思ったのは肝臓か心臓か肺のようでもあり、観察したけどそこから鳥には復元しにくいし、魚の形にも復元しにくく、結局よく解らなかった。すぐ上の国道は人間の車が行き交い、誰もみていないとことで不思議な自然の生態系の摂理が繰り返されているのだ。水がぶつかり激しく水流がうずまく水面から水の厚みを見つめていると不思議と泡がそこをよけはじめ、水底が見えてくる。魚が泳いでいるのは見えた。蛇や。もっと大きな水中生物が通っているハズ、と思うのだが想像力でかさ上げしても、それらを目に見ることはできなかった。
夕方の蝉時雨も、夏の始まりの頃ほどの勢いはなく、ややもして草木の間からの虫の音にとってかわられていく。
21時頃撮影を終えると雨がぽつぽつ、玄関で縁側みたいな木の長椅子に腰掛けて、高い梢で時々またたく風灯(ふうとう:リビング・ワールドさんの作品)、暗い気を時々うきあがらせるように空全体をあかるくする遠くの稲妻、一定間隔のストライプで屋根からしたたりおちてくる雨だれが玄関の明かりを受けてストップモーションに見えるのを眺めていた。

毎日、こんなふうにていねいに生きられたらきっと、今日の後悔のようなことはしないで済む。

...a day before.....*+*+*+*+*....a day after.....