***21.july.2005
午前から昼にかけてメールで仕事を進めた後、昨日の続きの庭いじり。10日前にやってきたひよっこのセロウムもしっかりした茎に大きく葉を広げるようになった。鉢一杯にぎっしりつまった根っこをほぐして、地面(といってもコンクリートの上の盛り土だけど)に植え替えると、ほうっと一息ついたように、緊張がほぐれたのがわかる。先の、巨大になってきたセロウムの親分の足下で、元気に大きくなりたまいよ。
それから牧郷ラボのみくささんにいただいた青じそのちびくん三鉢を地面に植え替える。それから、昨日買って来た朝顔の鉢を、ラティス代わりの柵の足下において、これから蔓が柵に巻き付くようにする。以前、自然に巻いてる蔓を反対向きに巻き直してみたら元気がなくなって、慌てて元に巻き直したことがある。窓の外の柵に朝顔の蔓がいっぱい巻き付いて、毎朝花が咲いて、カーテンに色づいた光が踊るのを夢想する。うん、朝顔くんもがんばってくれたまいよ。
それから、成長著しいセロウムのせいで日陰になってるベランダに並べたシダやこけの寄せ植え(これも、みくささんにいただいた)に水を湿らせる。こけは気持ちいいなあ。
それから午睡をし、開始時間に遅れて、とっぷり夜になった7時半すぎに自転車でICC/Laurie anderson展のレセプション会場に到着すると、ちょうど、ローリー女史がmidiバイオリンのパフォーマンス中だった。どうやってその音が出てるのか、への興味が先に立つ人もいるだろう、けど、聞いている音自体が興味深いことが重要なんじゃない?バイオリンを弾くローリーはかっこよかった、そしてかわいい。小柄で、25年ほども前に、きれいなおでこだなっと思って見ていたおでこは相変わらず奇麗。肘から下が大きく垂れたかっこいい白いシャツに、黒いパンツ、髪は、あのベリーショートよりはちょっと長く。重厚な響きに滑らかな高音が交錯する、それは、音、というよりはるかに音楽的だった。パーティ会場なので、後ろの方では、演奏にかき消されないように大声で話すひとの声や、ざわざわと人々の会話する声が通奏低音のようにそこにあり、音楽のトーンと呼応して湧き上がって来たりしずめられたりしてる。ちら、ともそちらを見ない、目を閉じて自分の音楽に聴き入りながら演奏する彼女は、さすがのアーティストだった。そのざわめきも音楽に取り込めるノイズ、このノイズがあるからますます音楽は重層的になる。彼女がふっと瞳を開き、ああ、演奏が終わるんだな、と思って一呼吸置いたところでバイオリンからボウを離して、こんどはまっすぐこちらをみて微笑んだ。拍手。遅れて来たし人がいっぱいで見えてなかったけど、白いスケート靴を履いていた。
23年前か、大学で出会った、何かアクションせずにはおられない仲間たちと、新しいテクノロジーを織り込みつつ詩的でインテリジェンスに富んだNY人のアート・パフォーマンスを毎日のように、ってのは大げさだけど、見ては論議(だらだらと喋ってただけ!)してた。そして、パフォーマンス研究会なるサークルを作って、およそ当時の学校のみんなには理解できないパフォーマンスなるへんなことをやって内輪で盛り上がってた。パフォ研。伝説の、てゆうか、私たちがもっと面白いことを思いついてそっちをやりだしてパフォ研ほっぽりだしたらそれで終わり。そうして、ウイリアム・バロウズ、ギンズ・アレンバーグなる人物たちを知り、ローリーの、知的すぎてよくわかんないアメリカン・ジョークは、私たちの間でそのわかんなさがウケてしばらくはやった。その頃、いつかローリー・アンダーソンを、そのパフォーマンスをこんなに間近で見ることがあるとは思いもしなかった、そのくらい遠いところにいた、というか、そこへいく方法なんて知らなかった。…そんなこと思いながら展示室への階段を上る。上り切ったところに、ビニール版のレコードをつけた鉛?のバイオリン。夢の風景のような詩が書いてある(日本語で、チョークで)。うっとりと読み惚れる。振り返ったところにLEDの電光掲示板が、日本語で、一文ずつ、詩を流す。その足下にディスプレイがあって英語のメッセージが水の波紋のように広がる。そういったエレクトロニクスのことじゃなく、詩の内容に心が震えた。新しいことでもなんでもないのだが、味わい深い言葉というものがある。アーティストの、何にも動じない力を存分に感じるね。ただ、「私たちが通った場所には」の一文が示された後の言葉はわたしのイメージとはかけ離れていた。彼女は「狂ったように風がふいていた」と言った、私は、空っぽの空き地、写真のように止まった空気、あるいは何のゆかりもない建物に占拠されて、かつて「私たちが通った」痕跡は無惨にも、空虚に霧散して誰も思い出さないものになってた、そんなイメージを描いて次の言葉を待っていた。この違いが、わたしと彼女の違いなのだと思う。その違いの意味するところが、わたしにはわかる。日本の古代の壷に二千年前の陶工の声や音の記憶が残されていてレコード針で再生する夢の詩は、まったくもって、わたしもその夢に立ち会ったことがあるような既視感をもたらすのだが。すでに、彼女の表現の根底に触れた気がしてかなり満足して、もう閉会まであまり時間がなかったこともあり、改めてゆっくり時間をかけて味わいに来ることにした。
いつも、作品を発表する時に思っていること。はしゃいでいる人を黙らせること。ひとりの時間にひきもどすこと。高揚した気持ちをリセットして「ここから」思考を始めること。今日は二つの作品と演奏を聴いたのだけど、それを実現できているアーティストとしての力を充分に感じた。エレクトロニクスやテクノロジーはその後に来る手段なのだ。昔のやり方と言えば、そうかもしれない。エレクトロニクスやテクノロジーそのものから始める思考もあるだろう。だけど、何が心を揺さぶるのか。心が高揚するのとは違う、懐かしい孤独へと立ち戻り心の浸透圧をはかるきっかけを与えてくれるもの。「わたし」という自己主張、誰かに見られるための素振りを超え、抽象を経て普遍化した「わたし」のインテリジェンス。すがすがしく、自転車をこぎ、スーパーで日用品を買い物して、帰る。
「わたしをわかって」症候群の未分化な情欲をそのままにぶつけてくる自己表現としてのアート(?)は苦手だ。音楽の領域ではそれが「表現力」ともてはやされることもあるらしく(ほんとかな)、特に女の演奏者はいかに自分を美しく(艶っぽく)見せるかに余念がないように思われる。ほう、こんな奇麗な女が音楽もたしなむのか、という視線に媚びるプロモーションをしておきながら、モテたくないのにモテちゃって困るの、はねーだろ。アンニュイに撮ってもクールに撮っても、女だろうと男だろうと、歌舞伎町の店頭看板と意味は同じだと思うよ。芸能者だけどゲイシャでもあるんだ。
なんか混濁してきたのでおいしい食べ物のこと考えよう。
Australian Cheese camembert
ちょっとかためでざらっとした食感。とろとろのブリーチーズも好きだけど、単体で食すならこういうハードなカマンベールがいいなあ。
すいかもリンゴも、みっちり肌理の細かいみずみずしいのもいいけど、ちょっとシーズン終わり目にでてくる、スがたってざらざらのつぶつぶになりかけたとこがあるのが好き。

...a day before.....*+*+*+*+*....a day after.....