***02.july.2005
記憶に刻まれた風景、忘れられない声、空からは見えない、空には聴こえない阿鼻叫喚の地獄絵、焦燥、狂気、
毎年、夏が近づくと第二次世界大戦のすがたが様々に語られる。戦争の災禍を体験してなお生きた人々の気丈。戦争を知らないということを軽々と言うものじゃない、笑って語る事なかれ。
生きたいと言っても死ぬ、死にたいと言っても簡単には死ねない、ことを凄惨な極限で受け入れざるを得なかった人の、身の委ね方、達観というきれいごとではなく。僕は、このひとたちが、果実を手に取る時、塩を降るとき、あらゆるすべてのふるまいをつむぐ一瞬一瞬に何を思うのか、一瞬一瞬のさらに隙間に忍び込む残忍な記憶のフィードバックを、どのように振り払うのか、飲み込むのか、知ることが、できるだろうか。生きていれば細胞は死に、生まれ、数年もたてば既に、数年前には存在しなかった細胞が身体を征服する。けど記憶は、細胞に刻まれるのじゃなく、細胞を生み出すエンジンの燃料の組成に関与し、以後、生まれ来るすべての細胞に刻みつけてゆく。 だから、知って、解ったと言うことはできない。どこかで、解ってはもらえまいが、と思いながらもそのことに苛立ちをぶつけはしない彼らの、諦念と寛容、深い皺のひとつひとつを見つめながら。許す対象も恨む対象も憎む対象も怒る対象も何もかも霧散してどうにもならない憤りの果ての、瞳の奥。
今、
お前は何もわかっていない
と放つ人の浅はかさ、横柄さ、他者を哀れむ仕草で苛立ちを鎮めるカタストロフィは、若く、生き生きとした、情欲の発露、人の世の生き生きとした発露がきらきらしてきれい。きらきらしたものがぶつかりあって火花散る。きれいなものしか見えない感性、それでも、きれいなものさえ見る目を濁らさなければ、きれいなものさえ見る目を濁らさなければ。
すべての対が混在する世界。
一方、慰霊碑に刻まれた名に清い水を注ぐ人々。
いろんな、経験が、同時に進行している。

貧しさと卑しさは違う。

玉葱、トマト、牛のお肉のハヤシルウ。キウイが2週間経っても熟れないので酸っぱいまま、五個。

...a day before.....*+*+*+*+*....a day after.....