***03.apr.2005
もうずいぶん前の話。街角の風景を隠し撮った写真の被写体になった人が、見知らぬ場所で自分の肖像を見知らぬ誰かの作品として解釈を与えられ発表されていたら、どう思うだろうか。そういう写真集を持ってきた人に、問うてみた。私と意見が合う合わないじゃなくて、作家が明瞭に答える言葉を自覚しているかを確かめたかったのだが、揺れる発言がバランスを崩した瞬間、突然師匠が「モノとして撮っているんだ」と言い放った。
撮影者と被写体との距離を問うているのだ。本人が答えなければならない場面なのに、師匠は俺だ、馬鹿の門外漢と対話する必要はないぞ、というバリアを感じた。この、他者への苛立ちと傲慢さが芸術家としての強さなのか。フーン。芸術家の場合、視野の狭さが強烈な個性になって価値をもつものなのかもね。人間の深層を見つめたい、と言った写真の被写体人物がモノかよ、と言う気も失せてその場はしらけた。
はるか彼方の昔、特に親しくもないクラスメイトと課題に関する雑談の拍子に、お前に何がわかる、と言った。それから2年経たずして訃報を聞いた時、ふいに、それが、記憶の時間軸の中でその人が個として存在する唯一の機会だったと理解した。他に他愛の無い会話はしただろうに、その一言だけが風化せずにあった。若い時に育ちがちな他人は自分以下、という心が、心を解放する力を封じていたのかしら、と思うことがある。救いようのない苦痛や寂寞の中にあったとしても、時間や経験から完全に自立できない「今」の瞬間がその要因だったとしても。もう、老齢になるであろうご家族もやがてはその籍へ移る。
ときに自分を無にしてすべての価値観から自由になれば、外の世界はぎゅんとしみ込んでくる、そうして直観という相互理解が生まれるのだ。開いてる状態ね。

...a day before.....*+*+*+*+*.....a day after...