***26.dec.2004
今年はなかなか展覧会を見られなかった。相当頑張って時間を工面するか、もう開き直って仕事を捨ててこないと。で、金沢から上京した知人と会う楽しみに後押しされて、[明和電機/ナンセンス・マシーンズ展]と[ウォルフカング・ティルマンス展]とギャラリー上階の2つの展覧会を見て来た。ICCの広い空間をきっちり埋めた物量に天晴、生演奏(デモ)も聞くことができて面白かったです。ソロになって以降の作品の世界観は、デュシャンの大ガラスを巡る謎解きを彷彿とさせるけれど、ダリに一言だけ触れていた。なるほど、これもひとつの男性的ジェンダリズムか。男には男の理解世界があり、表現のカタストロフィがある。というか、この思考自体が装置化を目的としたプレ・ストーリーとして機能していて、それがちょうどよい加減なんだな、きっと。実は、ティルマンスを見ていて思ったこと。ティルマンスのビジュアライゼイションを区画された空間ごとに見ていく。具象物の形が明らかでない、あるいは、感応をコントロールしたひとつの色面とおぼしきプリントに深く見入る。ティルマンスに関して全く情報を持たずに、対峙する作品だけを通じて作り手の存在に触れようとする(設営している時の姿はちらりと見たけど)。大きな室で、局面があった。少し高めの位置に配された、少し小さめの紙に焼き付けられた、モリッシーの肖像。もみあげから鬢のあたりに白髪が混じり、目尻に刻まれた皺とともに穏やかな視線を投げかける。この人の強いアイコンにより、男性性と女性性を併せ持つひとの紡ぎだす繊細さ、哀しさと激しさへの直感が、一気にティルマンス像を形成した。誤解であっても、なくてもいい。その直感は軽い嫉妬も含み、そしてたくさんの展示ピースを貫くまなざしが、ぴっと通った。
ただしここでもまた、その直観と嫉妬の後、トランス・ジェンダーとクロス・ジェンダーの間にかみあわない差異があるな、と思った。
渋谷陽一[サウンド・ストリート]で[leel around the fountain]のさわりを聞いて矢も盾もたまらずLP買いに走ったのは23年も前のこと。ソロになったモリッシーの来日公演に行ったのが最後で12年くらい前か。最近またデレク・ジャーマン映画のサントラなど聞き返していたものだから。
さて、この日はもうひとがんばり。
夜は、喜多尾浩代さんのソロ・パフォーマンスを中野・PLAN_Bに見に行く。彼女のパフォーマンスは、筋肉・骨格的な身体表現もあるけれど、さらに呼吸を重視している。内気循環とでもいうのか、身体の表層に現れる小さな動きを導きだすことだ。

a day before.....*+*+*+*+*.....a day after...