+++ 浮遊する色 dub mix version +++
※本稿の別バージョンはBSS美術出版社「BT/美術手帖」2000年6月号に「浮遊する色」として、写真・図版を参考引用、解説文を追加して掲載されました。
※本稿は、今後も加筆・改訂していきます。それにともない写真・図版等も掲載していく予定です。
 

■見えている色とはなんだろうか

 電磁波のうち、可視光線として我々が認知する波長の範囲は有彩色に見える。有彩色とは白色光の一部を生かした様相である。光はエネルギーとして常に在るにも関わらず、知覚されるときその存在が支持される。受容される様態として考えれば、不確かで相対的な現象である。色彩知覚に関しては絶対色感というものは定義できない。
 植物の光合成のように、光のエネルギーのどの部分をどのように取り入れるかは生命の種によって様々である。私たちの皮膚も光のエネルギーに反応しているが、こと「見る」という問題または事象に関しては眼球依存である。
 みるということの多様さについて考えてみよう。例えば漢字では、見る、診る、観る、看る、視る。あるいは眺める、睨む、などの関連語が容易にあげられる。多くの言語において「みる」に相当する言葉は複数あり、それぞれ「みかた」を定義していることが理解されよう。「みる」行為については眼球がインターフェイスとなるのだが、それだけではただ世界を逆さに映す機構にすぎず、このような多様さは生まれない。光ある空間に物体が介在し、その表面から電磁波が反射される加減で各波長域の刺激の強弱がつくられる。それを網膜の細胞が受容し、脳の処理過程を経て色や形やその空間配置を認知し、「みたものをつかまえる」情報行為が成立する。眼球は脳の一部である。「みる」ことの代表的なインターフェイスは眼球だが、眼球だけではないとも言えるのだ。
色は主観的な傾向を許容するものだと述べておいて、本稿ではやや主観的に、視覚、とくに色彩知覚における眼球依存/非眼球依存の境界をただよいながらその多様性と可能性をながめることにしよう。

若葉もゆるこの季節、窓の外の樹木を眺めてみよう。陽光を透過して眩い黄緑色。その通り。しかし機械で計測してみるとかなり強い赤みの波長を放っていることがわかる。ヒトの「視」はその赤みに反応しない(可視域が少々ずれている人には赤みが感じられるかもしれない)。見えている色と機械がとらえたエネルギーとしての光の様態とは一致しない。つまり私たちの生態的自然は脳的であり、その働きには詳細情報をある程度無視して都合よくまとめてしまういいかげんさもある。「みる」ということはこのいいかげんさに結構助けられているといえる。
我々の知覚系は環境の変化に応じて「自分」を変えていくことができる。環境に順応することによって生きていく上で大変都合がよくなる、というわけである。暗闇でも目が慣れると僅かな光の加減が知覚できるようになる。これを暗順応といい、逆の場合、つまり明るさに眼が慣れる場合を明順応という。また、サングラスをかけたとき、初めは彩りや明るさが損なわれた印象を持つが、これもしばらくするともとの世界と何ら変わりなく過ごすことができ、白いものは白く感じ、色を間違えるということはなくなる。これを色順応という。ところで順応した後もとの世界に引き戻されたらどうか、というと、陰性残効といって慣れた世界の明るさや色が極端に反対の様相で現れる。例えば赤褐色のサングラスをかけて雪山を見ると色順応によって雪は「正しく白い」と感じる。その世界に慣れてからサングラスをはずした瞬間、雪は緑みを帯びて輝いて見える。この陰性残効によって感じられる緑色は、現実に提示された「正しい色」ではなく、知覚系によって内側でつくられた色である。従って眼球依存度の低い色といえよう。
影は環境にある光の色味の反対の色味をもって知覚される。夕陽の時刻や、夜間照明の元でそれぞれに観察してみるとその色付き加減は興味深い様態を示す。これを色陰現象という。それを色の対比効果として考えれば錯視的だが、網膜の視感細胞の刺激受容の働きが影響しており、眼球依存度の低い色といってしまうことは難しい。

■浮遊する色

色の見えの様相は多様な種類が確認されるが,これらは大きくは物質性に深く関わりを持つ場合と、物質があまり発言しない場合の二通りに分けて考えられる。このことを、不透明な(物質の)色の世界と、透明な(光の)世界、と言葉を置き換えてよい。光のエネルギーは明るさをともなう。光の色は明るさを足していく色である。絵の具やインクなどの物体色は暗さとしての色だから、明るさのなかに陰りを足していくことになる。

空の色は、普段は建物や何かしらものの形に切り取られているために薄っぺらな平面に見えるかもしれないが、野原で寝転んで空だけを眺めていると、目の前の透明な空気の層がなくなって空の色に包まれるような感じがしたり、手を伸ばしても届かない果てしなく遠くにあるような感じがしたりする。空の色づいた面は一体どこにあるのか、その認識は揺れつづける。これは視野全体を包囲された状態での面色感で、両眼で見ていることも影響する。ぼんやりと眺めているときふたつの眼の視軸はなかなか交わらず遠くにピントを合わせようとする。ある一点を見つめると視軸は近い距離で交わりはっきりとした像を結ぼうとする。空間の定位の喪失、これが面色の基本の性質である。それによって面色は明るさの感覚を伴う。
広い場所や空でなくとも壁穴を通して物体色を見た場合も、形の輪郭情報のない面であれば面色感は得られる。この場合、眼はその中心で像を捕らえる見方をおのずとするため、網膜上の明暗と彩りの受容細胞が強く刺激を受け、対象となるものの色は明るく鮮やかに見える。これを中心視という。覗き見は周辺視情報をカットするため、隠されたものへの好奇心と所有感の満足に加え、見たいものに焦点を合わせやすい切り取りの効果にも助けられる。ゆえに通常の見方をする時より魅力的な見えをもたらす。
鏡に映る像において、現実世界の奥行きは模倣された色面(鏡映色)として失われている。
奥行き感の喪失、あるいは無限の奈落。水平垂直の世界に位置づけられた身体軸の相対的な喪失による浮遊感。これらは現実感を欠いた面色的な見えを呈し、透明性の色知覚と結び合っているところがある。普段見なれた世界の軸の歪みや傾斜、反転や陰性残効による違和感を求める遊び…例えば筒型万華鏡による単眼中心視での複眼レンズ的な見えの体験に美を発見し、合わせ鏡の部屋では全体視と立体視の錯誤が奥行き感と身体軸の喪失による浮遊感をもたらす。野原で寝転んだ瞬間、あるいは上体を起こすときに世界が回転したように感じる軽い眩暈は水平垂直の空間的手がかりの喪失によるところが大きい。

■透明な色の世界

光の色の、物質的な痕跡を残さない性質は遠い存在である。物質に依存して存在を確認できるものは我々を安心させ油断させる。物質性からの開放は、すなわち重力世界からの開放を意味する。空間の事物をそれぞれに定位できるということが重力世界のルールである。物体色に宿る不透明感は素材や温度の触感的表情を持ち、重量感と常に結びつきながら背後にあるものを隠す。透明性は光と結び合ってそのものの中に奥行きを内包していることを隠さない。また塊感のあるものは光の屈折の場となり、皮膜のように薄いものは自らの存在を消し込みながらも否定しがたく見えに影響する。これらの介在により、対象物の様態が変容するさまに立ち会う魅力だろうか。それゆえ、透明性を持つ色の世界には常に明快で刹那的な、タナトスの気配が漂うように思われる。それはこの重力世界に生き、生かされる我々の宿命的な憧憬といえるだろう。

透明性の解釈を、複層の見え、透かし見の例で考えてみよう。
透かし見については、点または線的な透けで、目の粗い編物や網など最小の物体部分に支えられた膜状のものを通して見る様態、磨り硝子や障子など透明ではないが透光性のある皮膜を通して見る様態、のふたつの様態があり、いずれも複数の色の重なりをもって現れる。
前者は網目の抜け具合によっては並置混色(後述)を呈し、配色によっては手前の膜の色と後方のものの色とが同化しやすい。白より、赤い網に入ったオレンジのほうが彩り鮮やかに見えるのはその例で、味覚との共感覚を呼ぶ。
後者は灰色みや乳白色の、光沢のない透光性の膜を透かして背後にある色を見ることだが、膜自体に彩色したり、膜の裏に物を置いて背後から光を当てて得られる、透過光(色)や影の効果もこれに含めてよいだろう。幻灯機、回り灯篭や影絵は、幻想的な風景として親しまれ、芸能として高い完成度に至っったものもある。ティッシュカードといって薄紙に彩色したりピンホールをあけて光の効果を立体視で楽しむ両眼立体鏡用ステレオカード、色合わせや観察の際トレーシングペーパーを重ねてみるティッシュ・エフェクトなどもその仲間だろう。いくつかの例における霊的存在は、重力世界における異人として透明性の描写をもって世の者らしからぬ不安定な存在であることを示している。

■混色

非眼球依存の色として、混色知覚があげられる。色光の原則である加法混色や、物体色の原則である減法混色はいずれも眼球依存の色知覚だが、ここでは提示された色とは異なる、第三の色を脳がつくりだすところの混色についてふれていく。
混色には時間的なずれによるもの(継時混色)と、空間的なずれによるもの(並置混色)があり、デバイスによってさまざまな様相が観察できる。
テレビやコンピューターのモニターは、光の三原色ビームの配置と発光の強さの組合せによって、中間色を知覚させる。
原色版印刷では四色のドットの重なり具合や密度によって起きる併置混色によって中間色が知覚され、類似した属性(色相、明度、彩度)を持つ小さな部分がまとまり感をうんで(群化)大きな形を認識する。先染織物の配色においてもしばしば並置混色の起きる織り方、編み方によって、使用した色以外の色を感じさせる効果がみられる。江戸小紋は、通常の視野に対するその柄の細かさゆえに面的な色を感じさせるデザインもある。これら並置混色の効果については、視野角が相対的に小さい(ひと目が細かい)、ということが条件である。
ある種のメディウムを使用する絵画においては間近で観察するとわずかづつの絵の具を含ませた細筆を網目のように運ぶハッチング技法が用いられている作品がある。これによりオーガンジーなど目の粗い織物を重ねてつくる透かし見の混色状態と似た効果が得られる。
複数の有彩色を分割配分した円盤を回転させて観察すると、色の専有面積によって異なる混色を呈する。この様態を継時混色という。木の周りをぐるぐる回った虎がバターになってしまう、という物話の顛末は、極端だが継時混色の様態の特徴を示している。

特殊なものとしては両眼立体視時の視野闘争、視野融合による透明色化と混色知覚があげられるが、紙面の都合上、別の機会に譲ることとしよう。特殊な「視」の状態のとき色彩の知覚もまた現実感から遊離しやすい傾向にある、とだけ記しておく。

■実体としての色、虚像としての色

少々色彩の世界を広げて無彩色ー明暗の世界に立ち寄ろう。
花火に火をつけて振り回しながら空中に文字や絵を描く遊びをしたことがあるだろう。群青の空に尾をひくオレンジ色の光の軌跡を見つめていると花火が終わった後もしばらく形が目に焼き付いていて、やがて消えていく。眼底検査で強烈なフラッシュ光を受けた後長い時間ネガティヴな光の印象が視界を支配する。これらを残像といい与えられた刺激に対して、それぞれに異なる色の印象を得る。
実体と虚像、これらの言葉については、並置できるのか、またリアルとは何か、という問題も含め慎重な検討が必要だが、ここでは手で触れられるものと触れられないもの、という定義に留めて使用する。痕跡とは実体の虚像である、とする。光の絵画といえば写真術のことを思いうかべるだろう。被写体(実体)と光学的な写し(ネガ、ポジ)の関係を色彩世界において考えてみると、現実感と離脱感が色の透明さをめぐってたちあらわれる。ネガとポジの関係には、意味関係は保ったまま、存在と不在が反転する場合と、意味関係まで反転してしまうものがある。これは我々の通常のポジ的な見えの慣れによる反転とも言える。
ネガの色世界は非物質的な見えを提出する。この違和感は、光は上方から与えられ下方に陰りをつくる、という重力世界の約束事をひっくり返しているために起きる。一方ポジプリントの状態は現実世界の写しとして安心して眺められる。白黒の明暗調だけの方が立体感、素材感はよりはっきりと感じられる。彩りはそれらに関する知覚を混乱させるイリュージョナルな存在なのか。
遠い祖先が残した洞窟画のうち、今世紀になって発見されたネガティヴハンドと呼ばれる一群がある。指の欠損(近年折り曲げただけ、との見解が示された)が特徴で、黒、赤の顔料を吹き付けた色面から塗り残された手形の岩の地肌が見える。力士の手形や新生児の足形を残す風習が存在のポジティヴな確認作業だとすると、ネガティヴハンドは不在によって示された存在ということになろう。

次に予め虚としての色に立ち寄ってみよう。先に継時混色の話題で回転円盤の観察実験を紹介したが、同じく回転円盤でも無彩色のグラフィック・パターンによるベンハム・トップとしてつとに知られた主観色生成の現象がある。白地に黒い線や塗りつぶし面を配した円盤を回転させて観察すると、回転の速さや元のグラフィックスによって様々に彩りを感じるというものである。さらに拡散や収斂などの運動錯視も引き起こす。他にも主観的な色や形、奥行きの知覚を生起しやすい代表的な図を用意したので確かめてみていただきたい。これらは初期段階では網膜の受容細胞の機能的な問題が関わるが、最終的にはかなり高次の視覚過程が関与しているとの考えが優位で、つまり非眼球依存の傾向にある色といえる。

■非眼球依存の色

それでもここまで述べてきた色彩現象については少なくとも眼球という門を通過するという前提があった。
ここで、その門すら回避して直接脳にアクセスする色についても考えてみよう。
眼球と空間の間にものが介在しなくとも、残像光、幻覚、また脳に直接刺激を与えたりすることで感じることのできる色の世界もある。眼球依存の見えは物質表面の世界とつながっているが、それに対してこれら、網膜の細胞を使わないで感じる色彩は物体表面の反射光を介さず直接の神経興奮から発せられ、光と直接結び合っているようなところがある。ゆえに、眼球依存の視覚に慣れた身には違和感を覚える視覚世界であり、一種の緊張感をもって精神を別の場所へいざなう効果があるらしい。
いくつか例をあげてみよう。
色づいた夢を見て、目覚めた後も、妙にある色の印象が強く、そのために夢の内容も永らく記憶に留めることができるような体験を持つ人も少なくないだろう。強烈な精神的ショックによると考えられる幻視、病気治療のための投薬による幻覚や、LSDなどその知覚を求める場合もある。強く頭を打った時「目から火花が散る」ような白く細かい閃光が一瞬知覚されるだろう。臨死体験も光の知覚があるらしい。子供の好奇心は自分の体をオブジェにして親に叱られるような実験を次々に思いつく。あなたも瞼の上から眼球を押したり、眼をぎゅっとつぶったりして「見える」色やかたちを楽しむ遊びをしたことがあるだろう。これらの場合に知覚される「視界」を報告書があるが、物体として記述する際の困難がしのばれる。瞼を開いて現実世界にアクセスしているときは見ることができないのだから。また、最近の研究では、脳の視覚野に直接電磁刺激を与えることで光のみでなく彩りをも感じられることが明らかにされている。
これら非眼球依存の色の多くの印象は、視野いっぱいをつなぎ目なく覆い尽くし、物質性を欠いた面色の印象と似ているのではないだろうか。

■おわりに〜色はどこにあるのか

本稿では、色の見えかたのうちでもとりわけ我々を魅了してやまない透明な色の(光の)世界を俯瞰して、その見えの有様を散策してみた。
しばしおつきあいいただいたさまよいから現実の水面に浮上する際で、南仏を一日ドライブすれば体験できるステンドグラス窓三態を例に、実体・空間・陰にあらわれる光の色に思いを馳せてしめくくりとしたい。
作者はマルク・シャガール(ニース、シャガール美術館所蔵)、アンリ・マチス(ヴァンス、ロザリオ礼拝堂所蔵)、ジョルジュ・ブラック(セント・ポール、マーグ財団所蔵)。これら著名作家の著名な作品は、出版物に掲載・紹介された写真で覚えのある方も多いと思うが、紙に印刷された物体色ではまったく別のものになっているという理解をもう一度確認しておきたい。光の体験はあなたの身体(脳)が移動することによってポータブルだが、他者との間で流通する類のものではない。絵の具とカンバスという物体色の世界で表現と格闘してきた芸術家がマテリアルを持ち替えたとき何かが変わるのかどうか。
さて。
シャガールの表現はどの教会のステンドグラスにもないすばらしい立体映像が立ち現われる支持体の表面にある。青は海の波となり大気となり、生き生きとうねりこちらに迫りくる。空気と水の境目もあいまいにする圧倒的な青の気配のなか、赤い太陽がぐいぐいと視線を光のもとへ引っ張っていく。色の進出・後退現象(長波長の色は進出し、短波長の色は後退する)については、眼球内の焦点合わせが波長によって異なることから、生理学的にも事実として承認されている。しかしここでは逆の知覚現象が起きる。青いガラスを通した光は迫り来て、赤いガラスを通した光は遠ざかる。支持体と表面の見事な一致から醸し出される並外れた豊かさの前では、そのような科学的知見や態度はほとんど意味を為さない、みえない力のみなぎりに感じ入るばかりである。

マチスのステンドグラスは、彼が晩年過ごした病院の看護婦の手厚い介護に感謝して寄付した礼拝堂にある。このために彼は多くの試作の初期段階を切り絵で制作し、縮小模型も用意して検討した。この空間で時を過ごしてみれば、ステンドグラスにおける彼の表現は光を透過する切り絵ではない、との思いがこみ上げてくる。時間の経過とともに太陽は巡る。ガラスを通して満たす光の角度が移動するにつれ、白い床に描かれる色づいた影も少しづつ角度と色味を変えていく。ガラスの面の色彩構成はすべて、床に描かれる光の絵のために計画されたのではないかと思えるほど、かつて物体色の世界では逃れることのできなかった輪郭線(境界という存在)から、ふわりと解き放たれた、境目のおぼろげな、柔らかく、しかしみずみずしい色彩で構成された物語がそこに現れるのだ。陽光の穏やかな日はうっすらと、夏の日差しには鮮やかに、言葉なく語りかけるように。建物の開口部としての窓は相変わらずそこにあり、ただインテリアを白で統一した室内に様々な時間のスパンで一時も定着することのない絵があらわれ、去っていく。

ブラックのステンドグラス窓は礼拝堂の西向きの壁の高い位置にあり、乳白の鳥の形以外は紫色の微妙なヴァリエーションの中にある。紫系の色というのは黄と補色関係に近く、ほんの少しの加減で赤みに寄ったり青みに寄ったり揺らぎやすい。しばらく佇んでいると薄暗い室内にある彩りや明るさへの知覚の閾値が上がって安定し、しろい空間に彩りの影響があることに気づく。多色構成による模様をつくらず、赤や黄などの明るさを伴う色も省いたこのシンプルな絵は、しかし夕方の、薄くオレンジの色味を帯びた陽光を透過したとき、多彩のステンドグラス窓から光を透過した空間では得がたい、ひとつの、しかし非常に微妙で揺らぎやすい彩りの光の気配で空間を満たす。

光を溜め込んだ色ガラス、空間に放たれた光、色づいた影。透明さをもつ色彩はなぜこれほどまでに我々を魅了するのだろう。我々が見ているものは何なのか。

色は、どこにあるのか。

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[ 28,july,,2000]