***06.jun.2006
90年代に大森にあってトーキョーの現代美術の一シーンを牽引した(とわたしは思う)レントゲン藝術研究所がその後、場所を二転三転させ、名前も二転しながら、今年15周年を迎えたという。
名古屋時代、親しい友人たちの間でいろいろな実験をしていた。その中の一組、synovくんとテラちゃんによるユニットTECHNO HEAVENが久々にパフォーマンスを行うというので、 元服イベント@SuperDeluxeに行って来た。対談では当時を振り返るなつかし話や秘話が散りばめられていて、一緒になつかしめる人はニヤニヤしてしまう雑談。そうじゃない人には、今をトキメク現代美術家の駆け出しの頃の逸話をtipsとして聞けたと思う。私はsynovくんのインスタレーションをサポートしたりしていたので、その頃は一言も喋らず黙って様子を見ていた。
レントゲン藝術研究所がオープンしたのはなぜかかのダミアンの誕生日の6月6日。確か、イベントの手伝いに行ったような気がするけどもう、記録を見ないと思い出せない。その前月5月に、ワタリウムでヤン・フート氏の作品批評を受ける機会があって、私はその前月に公開実験と称して1日展示をしたばかりの[ dimension×distance ]を持って、村上隆さん、H et H、市川平さん、津田佳紀さん、影山健さんらと同じグループで『Irony by Vision展』のさなかの美術館2階展示室でプレゼンをしたのだった。美術の作法も何も勉強しないで天然のままやってきた自分にとって、見知らぬ外国人が何を聞いて来て何を答えていたのかさっぱり。ただ、議論は物別れというか、コールドゲームで終わり、その晩のニュース23やら新聞コラムで「プロの厳しい批評が若い作家を育てる」みたいな記事のダメなほうのネタとして登場しちゃったみたい、ということは、友人たちからきいた。バブル崩壊後の当時、美術という制度もさまざまに解体・再構築の実験がなされていて、ホワイトキューブを飛び出す企画がはやり始めていたと記憶している。その時の企画が氏の成功した企画『友達の家』をアレンジした3段構えの企画だったことはあまりピンときていなかった。その時選ばれた作家たちは石川県鶴来町で展示をし、翌年以降、招聘された外国人作家が鶴来町で滞在制作し『水の波紋展』につながっていたことは、95年に金沢に移住してひょんなことから鶴来現代美術祭を手伝う事になった頃にようやく合点がいった。今だったら、ヤン・フート氏と質の高い議論ができるかな、てなことを、時々思う。痛い失敗だけど、必要な経験だったと思う。経験の場をしつらえてくれた方々に感謝している。マルセル・ブロータースの作品の前に自分の作品を覆いかぶせるなんてことは金輪際あり得ないインスタレーションだと思う(^^;)
ところでSuper Deluxe会場にて12年以上ぶりに、テク太郎こと両角章さんに再会。懐かしいのは苦手なんだが、やはり懐かしい。テクノ助ことwakaさんとはしょっちゅうコンタクトがあるのだが、「テクノ助テク太郎」がつなぎ目だった私とモロさんは、バンド解散して以来かもしれない。テクテクを検索してみたら、yumito.orgが一番にヒットした、と言っていた。私は自分関連が引っかかりそうな検索は恐ろしくて絶対にやりたくないのだが、そうか、そうですか。嬉しかった、とモロさんは言っていた。名前の由縁である染之助染太郎もテクノ助テク太郎以降10年間看板を張り続け2002年、海老一染太郎師匠他界にてひとつの終焉を迎えた。その訃報を聞いて思った。染之助染太郎あってのテクノ助テク太郎、師匠お疲れさまでした。
当時20代だった我々も不惑である。当時、大学出たてのみんなとは、名古屋造形短大のインターメディアの山本圭吾さん(当時)や、名古屋芸術大学の造型実験の茂登山清文さん、カノーヴァンを立ち上げて間もない親見英治さん、それに大須七ツ寺共同スタジオ近辺の劇団、少年王者館や、Ost-Organの海上宏美さんら経由で知り合って行った。今、名古屋にどんなムーブメントがあるのか知らないけれど、おもしろい環境だったと懐古する。
15歳で元服か。1991年から15年たった今、どこまで来たんだろう。水平には一歩も動かず、垂直に、ふわふわ浮いてるだけか、ズブズブ沈んでいるだけか。進歩はなくとも変化はあったのか、どうか。

...a day before.....*+*+*+*+*....a day after.....