***06.nov.2005
かわなかのぶひろさんの映画『空の繪』『時の繪』『夢の繪』を見に行った(@imageforum)。 告知されていたこの3本の後、『Bふたたび』の追加上映を見た。 今回の上映は、音楽を担当していた藤沢道夫氏の「はからずも」追悼上映になったのだそうだ。 足元を撮っているカメラ、に撮られている足は地面を歩く、埃っぽい土の上を白塗りの男の足がまとわりつく綿のスカートの裾をさばきながら歩く、イスラム風のタイルの上を歩く、そのたびにあざやかなバザールの売り物、食べ物になる直前の豆や魚の色が画面を埋め、続いてはにかんで微笑む子供たちの目の力、沐浴をする黒髪の乙女たち、ミャンマーで暮らす人々の姿が繰り広げられ、時々、 ピンの甘い白黒の昔の街や人々の写真の中を水木しげるの「影」のようなヒトガタがはしゃぐように走り回る映像が挿入される、そういう映像だった、『時の繪』は。眺めながら、とくに、沐浴をする乙女のシーン、夢のように美しい風景、という言葉が頭に浮かんだ。
「実験」というのがジャンルになるってどういうことだろう、と常々思っている。かわなかさんの映画は「実験映画」なんだろうか。『空の繪』『Bふたたび』は1985年のクレジットだから20年前。1985年から20年もたったということを感慨深く思う。20年、思い続けたことがいつの間にか20年も絶えることなく続いていた、時に忘れながら、でも失ったことはなかった、思うことの遺伝子は受け継がれてきていた。 「実験映画」というのを、金沢の地下広場に見に行ったのは1981年だった。退屈になるに違いなかった、その年の始まりが、今の自分につながっている。まったく、退屈なんかしたことがない人生だった。それで12年に一度くらい、退屈な生き方をしたい、という衝動が起きる。このまま消えて行くんじゃないか、という状況にどんな覚悟ができるか、現実のリスクを懸けて確かめたくなるのだ。
生きていることは実験だ。実験何とか、というと強くアグレッシウ゛で血圧の高い、ある種カリスマ性のあるプロパガンダのようだけど、そうじゃなく、果てしなく地味なところで、わたしは実験をしているのだ、と思っている。美術であるかどうか、の実験であることもある。その実験を心で受け止めてくれた人は既に鬼籍の人。何か考え事をして、これはどうかな、と思うと同時に彼女を思い出す。いつも心で思っていて、年に何度か会っても、個人的なことをたくさん話すわけじゃない、だけど彼女はいつもわたしの手をとって、わかるわよ!と言うのだった。 直接の言葉で伝授されることはもうない、このあとも、これまでと同じように、あわい痕跡を読み込むことしかないし、それが一番わたしの方法なのだ。
映画を見たのも久しぶりだった。見えなくなる前に、見ておきたいことは果てしなくあって、それを見尽くすだけでも残された時間はいっぱいだろう。
どうするのかしらねえ、このこは、とあの笑顔で言った彼女の言葉に、何て答えるんだろう、自分は、って何年それを考えてるんだろう。
外は夜、土砂降り。コインパーキングの精算機のコインが詰まってヘルプデスクに電話する。お札で払ってもらえないかと言う。すぐ横で煌々と照明されているドリンクの自販機は5000円札が使えない。近くの店でこわしてきてくださいという。よくできたシステムだ。土砂降りの中コンビニを探して入り、両替のためにいらん買物はしないぞ、と思いながら、肉まんを買ってしまう。のび太と一緒で、食べたらなくなっちゃうんだよね、と思いつつ、パーキングに戻ると、誰かが200円の清算のために500円玉を入れて300円のコインが落ちる音がしたところだった。もう一度清算番号を呼び出すとさっき詰まる前までの支払額は処理されて残額が表示された。清算番号の残額ってキープできるんだ、と初めて知った。さっきのおつりで精算機はカタストロフィを迎えたのか、なんなくコインは受理された。
今日までだったデザイナーズ・ウイークの100%design屋外会場は大変な天候の中、撤収していたけど、文化祭の片付けみたいで楽しそうな感じもした。全力疾走した後の休息の手前の、一瞬のアイドリング状態。

...a day before.....*+*+*+*+*....a day after.....