***21.may.2005
どうも、名古屋のグラス公演は行けそうにない。金沢から世界を聞く窓だった柿木畠のパイドパイパーハウスで1983年、手に取ったエドワード・マイブリッジの作品をフィーチャーしたLPジャケット。初めて聴く音楽だった。
Joy Division、the Smith、cavalet voltale、、、美術と切り結んだジャケットの中には新しい扉を見つけることが出来た。今ほど、いろんな情報がなかったのだと思う。今、そんなCDジャケットを見ても何も新鮮じゃない、なぜ当時それがとてつもなく新鮮だったんだろう、そしてなぜ今も新しい経験感をもたらすんだろう。単に僕が偏屈なのか?実際、出会いは予測可能で 退屈なものになったのか。生きている時間の同時代に立ち合えること。僕の誕生が間に合わなかったこと、間に合ったこと、この先置いてゆかれること。100年おきにみんなが末だ明けだと総括し展望すること、ほんとうは一定の周期なんかない、昨日と今日の間に世界の分節などないのだ。眠り、目覚めるまでの間に生まれ変わるのは世界ではない。
今日、連れて行ってもらった友人宅のホームパーティで微分・積分の概念をどのように例えるかが話題になった。数学(的な思考)はやはり自然科学への普遍的なアプローチ法なのだと思う。けど、数学者になったらそんなふうには、つまり数学者にならなかった僕が今思うようには、思わなかったかもしれない。その不一致が重要なのだ。
今日見たのは、太陽がさんさんと降り注ぐ健康で暖かいひなたの庭、じゃなく、陽気な芝生が幸福なカーペットになりかわいい花が咲き誇る庭、じゃなく、一日のうちのほとんどは包囲光のまわりこみのみでひんやりと湿った土にはいつくばる植物たちと暮らす親密な庭、だった。子供の頃、マンドレイクの発見に胸をときめかせていた庭の日陰の湿った土に似ている。陰気で美しい庭、私が好きな英国の映画監督たちならこんな庭で幻想を繰り広げるだろう。大きなびわの木が、緑にふくらんだ実をいっぱいつけていた。
世間並みな善に媚びない(かのような)庭を見て、今日は、うれしくなった。

...a day before.....*+*+*+*+*.....a day after.....