***19.may.2005
植物がコミュニケーションをとりうることは20世紀の早い時期から証明されている。植物が放射する微弱電流をひろってデジタル変換する試みもいくつかあった。
かねてより、技術から発想した人工物はともすれば下品に陥る、と思っていた。僕は思慮の浅さは下品さに比例すると思っている。僕自身まだ下品さの途上にある。
辛気くさい哲学なんかじゃなく、研究者はもっと単純に善意で考えているんだろう、優しい、けれど、思慮が浅い。
思慮深さとは強靭な精神力を要する。「なさない」ことの困難。けど人は弱い、弱くて優しい、優しくて単純で、だから明るい。思慮なんか浅くても深くてもどうでもよく穏やかな気持ちをもたらすプロセスなど人がとやかくいうものじゃない。穏やかな気持ちで過ごせることが大事なのは同じ。
何の話かというと、植物の放射電流を人間の言葉に置き換えるという研究のこと。人間の言葉を喋らないから、自分の棲む世界と異なる世界に届こうとする心をひきだし、ひらくのに、なんでまた人間の言葉を聞かなくちゃならないんだ、、、。
こんなことができるといいな、と思うことを現代の技術は次々と実現してみせる。でも、こんなことできるといいな、と思う心の背景を深く読むことはしない。それならこの技術でできますよ。それだけの話だ。
それは、支配という欲望にほかならない。植物の気持ちが確信もって理解できない、だから植物に人間の言葉で喋らせる。何をしているかといえば、植物を擬人化して勝手なアバターに仕立てて、自己幻想の世界を閉じることで満足しようとしているのだ。
優しさを自己表現として押し付ける、自分がいい人間であることを主張する、自己を解放するための優しいコミュニケーションは、コミュニケーションする意思ではなくアプローチではないのか。表現することによるフィジカルな欲求を押さえ、語らず、耳を澄まし、目を凝らすことにすら耐えられないなら、他者の心に深く沈んだ痛みの質など想像できないんじゃないか。
けど実際には、その場しのぎでもいい、即効性のある優しさに癒されたいと望む人の方が多い、そして現代の社会がその様相を示す。優しい顔をした自己主張のぶつかり合いなのだ。
歴史は、「語られた強いもの」のみによって紡がれる。語られなかった弱いものは消える、実在しなかったことになる。歴史家の仕事は、強いものに依って立つことではなく、消滅した弱きもののありかに眼差しを向けることなんじゃないか、ずっとそんな気がしている。
僕はね、ごめんね、否定はしないんだ、呑気なひとは呑気に「親切」に取り組めばいい、それが便利で気に入ることも、よかったね、と心から思う。優しさの自己表現をしたいひととそれを欲しがっているひとが欲望を解放することも、否定はしないんだ、それがなければ人類はこんなに繁栄繁殖しなかっただろう。僕だってその連鎖に組み込まれているんだもの。
ただ、僕は僕としてではなく、ひとつの存在として植物の仲間になるという密やかなよろこびを、不覚にも脅かされるような気がして、自己防衛した。選ばなければいいだけなのだ。
昔、愛されるための機械になるには?って歌っていたんだ、あまりにみんなが愛されるために努力しているからさ。(欲望ってピュアなものだけどね)

...a day before.....*+*+*+*+*.....a day after.....